【血の轍】惡の華との共通点が意外と多い件について

どうもこんにちは春日(嘘)です。今回は、「血の轍」と「惡の華」の共通点が割と多いことに気づいたので、そのご報告をさせてもらおうと思います。

単に主人公が思春期真っ最中の中学生男子であるということももちろんそうなんですが、それ以外にもこれらの2つの作品には大きな共通点があるのです。それはかなり深いところでもあるのですが、簡単に言うと、「どちらも選べない葛藤」をテーマにしているところです。

ここは深いところになるので、順を追って説明していきます。

長部静一と春日高男

「血の轍」の主人公である長部静一、「惡の華」の春日高男には多くの共通点があります。

それはパット見ただけでもわかるものもあれば、深く考察しないとわからないものもあります。当サイトは「惡の華徹底考察」というサイトなので、もちろん両方記述していきます。

思春期の不安定な心の動き

いずれの作品も舞台は同じ群馬県桐生市をモデルにしており、作者の押見修造氏の故郷でもあります。

実際に群馬県出身だからこそわかる心理描写が多いですよね。春日か抱えていた山に囲まれていることによる閉塞感や、ご近所での噂の広まり方など、割と東京に近いところで生まれ育ってしまった事により理解できない部分も多いです。

そしてそんな町で過ごした2人の少年が思春期になり、これまでよりも遥かに早いスピードで心身ともに成長をしていく物語であるという条件も酷似しています。

そんな二人の心を乱すものが違うだけなのです。春日高男の場合には仲村佐和の言う’変態’にまつわるアイデンティティ、または対人関係の難しさなど。一方の長部静一にはそれが母・静子との関わりによる意志の力だったりします。

両者とも特に秀でた能力があるわけでもなく、それぞれのハートブレイカーである仲村、静子がいなければ普通に幸せな暮らしが送れたはずの本当に普通の人物です。そのため思春期に巻き起こる心の動きを最大限に誇張した内容が2つの作品になります。

異性との距離感

春日高男は佐伯菜々子、長部静一は吹石由衣子と、それぞれ前から好きだった女の子と最終的に付き合うことになり、彼女たち・ファムファタルとの出会いにより、心の成長を遂げていくことになります。

最近では小学生の頃から彼氏・彼女がいたりが割と普通なようですが、私の頃は中学生くらいからちらほら現れていました。おそらく春日と静一の世代でもそうなんでしょう。だからこそ「付き合っている」という状況がどんなものかわからず、モデルにするものがないからこそもどかしい。

ただ一緒に帰ったり、一緒に学校に言ったり、たまに遊びに行ったりすることが彼らにとっての「付き合う」なのです。

もちろん正解はないですが、異性と一緒にいるという行為が意味するものを少しずつ知っていくことで、成長していくわけです。

春日も静一も邪魔が入らなければ普通に平和に、幸せに過ごせたはずなのに、大いなる妨害が入ったことで自分の幸せが遠のいてしまうだけでなく、最愛の彼女も不幸にしてしまうわけです。

自分にとっての大事なもの

2人共自分が何をしたいのか、どうすることが正解なのかを自分で理解していません。

それは春日はそもそも自分に自身がないから、だから自分のアイデンティティを仲村佐和に見出したふりをして、身を任せている一方で、静一は母静子により自分で考える力を奪われているのです。

両者とも理由は違いますが、異性交友を通して何を得たいのか、何がしたいのかを自分で決める力が弱いというところも共通点です。

春日は最終的に自分にとっての「本」は単なるブランディング、キャラ設定のための備品ではなく、いつしか本当に大事なものになっていたことを理解し、かつて仲村に依存していたことを現在の彼女である常磐文に打ち明け真人間になりました。

しかし静一はまだまだ発展途上であり、物語も途中のためどのような決断を下すのかわかりません。

春日は自分について、そして静一は母との距離感についての正解を探して苦悩しているのです。

クソムシと変態のどっちつかず

「惡の華」の仲村佐和によると、普通のことを普通に享受できる人間を’クソムシ’、そうでない人間を’変態’と定義しています。例えば’みんな’が飲んでるからといってタピオカを飲み、それを自撮りで加工しまくりの画像をインスタにアップする女子大生などはクソムシです。

これが普通です。しかし「みんなやってるからやろう」というノリについていけない人もいます。大抵はついていけてる風を装うのですが、自分を曲げられないために孤立する人もいます。それが佐和の言う変態であり、佐和自身です。

春日は自分がどちらなのかがわからず苦悩し、最終的にはマジョリティを選ぶことになりました。

一方の静一は母との距離感で苦悩しているのです。

昔から良くしてくれた母とずっと一緒にいたい(彼もマザコンですからね。)けど、しげるを突き落としたことを知ってしまい、母がやばいやつじゃないのかと疑うようになり、母の犯行を黙っていていいものかと苦悩することになります。

彼は生まれてからずっと母・静子にすべての判断を任せてきたこともあり、自分で何かを決めることができないのです。例えば朝はんに何が食べたいのか、好きな女の子に告白されたけど付き合っていいのかなど。

それくらい自分で決めるだろと思いがちですが、そんなかんたんなことが判断できないくらいに彼の判断力、決断力は弱いのです。それも母がすべてを決めてくれていたからです。

つまり、静一は母・静子がいないと何も決めることができないほどに依存しているのです。だから失うわけにはいかないのですが、その信頼がしげるの一件でゆらぎ、精神が崩壊していくことになるのです。

このように、春日はクソムシと変態、静一は母への信頼という究極の決断を迫られているのです。

まとめ

押見修造氏の書くマンガには人間のリアルな、そして時々汚い精神状態が描かれています。

「血の轍」では自分の息子を可愛がる毒親の本当の理由、「惡の華」では究極の中二病、「ぼくは麻理のなか」ではアイデンティティについて、「漂流ネットカフェ」では過去にとらわれるノスタルジックな気持ちと性欲の狭間。

作品それぞれにテーマがあり、登場人物はそれらに沿って行動しているので、一つの作品の中でこれでもかという汚い人間の心情が描かれています。そして「惡の華」と「血の轍」のテーマがにているんだと思います。

どちらも選べないというのは春日、静一いずれにも共通する心理状態であり、選びたいのかすら自分で選ぶことができない、ある種可愛そうな少年が主人公である点も共通していますね。

他にもこれらの作品の共通点を発見次第記述していきます!

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