【惡の華】映画版の最後の意味は?女子生徒は誰か考察【ネタバレ】

どうもこんにちは春日(嘘)です。今回は、「惡の華」映画版の最後のシーン、エンディングで海岸に座っている少女の正体について調べていきます。

漫画版にもアニメ版にも存在しないシーンですので、映画版のみのオリジナルシーンです。そのため考察を行うサイトも少なく、現段階で彼女について考察しているサイトは存在しません。そのため「これはチャンスだ!」ということで今回調べていこうということなのです。

そのため今回は映画版「惡の華」映画版を見ている前提なので、かなりのネタバレになります。なのでネタバレアンチの方はそっ閉じ推奨です。ネタバレをしても問題がない方のみ、以下の文章をご覧ください。

エンディングで佇む女子生徒

基本的に映画版「惡の華」も原作漫画版と同じ流れであり、最初に春日が体操服を盗んでから最後に銚子の海で水遊びをするまでが描かれています。よく2時間映画に収めてくれたな~と思います。お疲れさまでした。

そして映画版のクライマックスも同じく、玉城ティナさん演じる仲村佐和により「二度と来んなよ、ふつうにんげん」で終了です。そして春日に対しての自分の感情を確かめながら、春日と常磐の乗る電車が発車するシーンと、仲村が海に向かって立ち尽くすシーンが交互に描かれて終了です。

そしてスタッフロールが流れ、最後に再度仲村が海に向かい、その後去っていくシーンが描かれています。

問題はその後、仲村の奥にセーラー服を着た少女(おそらくは中学生)が座っています。晴れた日の真っ昼間に黒いセーラー服、おそらくは冬服を着ている少女はそれだけでジャパニーズ・ホラーを感じますが、恐怖はそれからです。

 

仲村が画角から外れた後、アングルが彼女に寄っていきます。そして彼女の見つめる先に、春日が決別を果たした惡の華が!咲いてしまったのです。

というわけで、あの女子生徒と惡の華は何を示す描写なのでしょうか?

’惡の華’の意味

「惡の華」の中で、あの惡の華は、仲村の言う「変態」に精神状態が近づく際に現れます。

その起源は古く、第1巻で春日が体操服を盗んだ帰り道に惡の華が現れていました。他にも夏祭りの日に死を決意したその瞬間にも惡の華が現れますが、その後仲村に突き落とされた際には惡の華がめを閉じています。最終的に、常磐文に告白をする直前、春日は惡の華を握りつぶしたシーンもあります。

つまり惡の華が現れるということは、その人物の精神状態があやふやになり、いわゆる「変態」に近づくことを意味します。そしてクソムシ、仲村によると普通のマジョリティ同様の考え方をする人間たちに思考が寄ると、惡の華は消える、目を閉じるのです。

ということは、映画版「惡の華」のエンディングで惡の華が咲いた少女も、かつての春日と同じような存在だと考察ができます。

新たな変態の誕生

それまでの映画の内容とまったくもって脈絡もないので、「惡の華」に登場したキャラクターではありません。

そのためあれは春日、仲村のように周りの人間との思考、会話が合わないことからアイデンティティ・クライシスを起こしてしまい、何かしら特異な行動をしようと思い立ったような状況に陥った誰かです。

春日や仲村のように行動に移す人は多くはありませんが、誰しもが通る道だと思います。そんな中の一人を描いたのだと思います。

思春期になると好きな子もできます。そうすると客観的に自分がどう見えるのかが気になり、自分のことをこれまで以上に正確に認識するようになります。その中で自分と他人を比べ、優劣を実感してしまうのです。

優勢であればいいのですが、多くの場合には劣等感を感じる場合が多いと思います。例えば容姿であったり、トークスキルであったり家柄であったり。そして春日はこのパターンです。だから彼は「本が好き」という設定に逃げていたのです。

仲村は春日と若干タイプが違いますが、他人との比較であのような攻撃性を得たと考えられます。

仲村は自分の周りの人間達と思考が合わず、周りでみんなが恋愛や勉強など、普通に青春を謳歌していることが許せないのです。佐和がそれを楽しいと思えないからです。

でもそれが多数派であり普通’であることもわかっていますが、それを認めたくなかった。だからそんな多数派をクソムシと呼び、自分のことをクソムシとは違う存在、すなわち変態であるとして、より異なる存在になろうと努力していたのです。

要するに、クラスメイトと話が合わないから、無理に話を合わせたくないから自分の殻を強化し、ゴーイングマイウェイしている風を装っているのです。

こう書くと、割とありふれた中高生男女じゃないですか?

誰しもがある程度は共感できる内容だと思います。そこで多くの人は人間関係を考慮して、ある程度話を合わせに行きますが、仲村はできないのです。そういう人間なのです。どこまで自分で自分のことをわかっているのか不明ですが、彼女もよくいるタイプなのです。

ただそのレベルが高いだけなのです。

このように春日と仲村のように他社との違いに打ちのめされた人物が、あの女子生徒だったのだと思います。

10代へのメッセージ

映画「惡の華」は思春期に、今、苛まれているすべての少年少女と、かつて思春期に苛まれたすべてのかつての少年少女に捧げる映画というテーマがあります。

そのためこの部分を意識していないはずはなく、思春期にありがちな暴走を誇張して描く作品です。思春期だからといってみんなが教室を破壊するわけではありません。しかし春日と仲村、佐伯のような考えを抱くことは普通です。

私も当時はクラスメイトに対する劣等感がありました。身長が低かったり天然パーマだったり滑舌が悪かったり。今にして思えば大したことない内容ですが、当時はやっぱり気にしましたよね。今でも身長は172センチですし天パーですしkつぜつも悪いです。

それでも人前で喋る仕事をしています。このように同じ悩みでも子供と大人では立ち向かい方が違うのです。誰しもが通った道を「惡の華」で描いているのです。

押見修造氏から「惡の華」で伝えたかった10代の少年少女を具現化した存在があの少女だったということです。

まとめ

このように、あの海岸に座っていた少女は思春期に苛まれている10代の少年少女のメタファーであり、特定の人物ではありません。

映画版オリジナルの描写なので、見ていない方はぜひ映画版「惡の華」をご覧になってください。漫画版、アニメ版よりも新たな発見がありますよ!

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